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漢詩はクールだ![後編] 都市伝説の根拠? 武漢が舞台のあの漢詩から

 

唐王朝時代の中国人は広東語を話していた!?」「広東語は1票差で標準語を決める投票に落選した!?」――こんな都市伝説を聞いたことはありませんか?武漢のシンボルとして有名な黄鶴楼を詠ったあの漢詩をチェックしてみると……。

 

 

「無価値なものを取り除き、精粋を取り入れる」ことに長けているのは日本の真骨頂だと評されることが多々あります。ただ、漢詩について日本人がどれだけのたしなみを備えているかといえば、文学通や愛好者、研究者等を除けば、少々怪しいレベルだと言っても差し支えないのではないでしょうか。

 

中国人は一般教育で300もの漢詩を習うとされています。したがって日本人の義務教育や教養レベルでの学習ではとても歯が立つものではありません。「日本人には打油詩(平仄や韻律にとらわれない、通俗的かつ諧謔性に富む旧体詩)などわからないだろう」とネットユーザーの書き込みがありましたが、「ごもっとも」と頷くほかありません。返り点の打ち方に苦しんだ“馬馬虎虎”(ママフフ)なレベルから抜け出せない筆者が口ずさめる漢詩といったら、せいぜい「月落ちて…」から始まる「楓橋夜泊(ふうきょう やはく)」(張継)が関の山だからです。

 

日本文化は「玉ねぎ」に例えられることがあります。一見変哲のない外見をした玉ねぎを剥いてみると、じつは皮の一枚一枚が異なる形状や色をしており、味わえば味わうほど奥深く、独特の魅力を放っている――というのは肯定的な解釈です。その一方で否定的な意味で使われることもあります。皮を剥き終わってみれば芯がない、すなわち借り物文化ばかりでオリジナリティーがないという意味です。中国ではむしろこちらの解釈のほうが一般的になっているきらいがあります。

 

しかし、『文明の衝突』で有名なハンチントンは、日本文明を中華文明の傍系とはとらえず、6大文明の一つとして位置づけました。歴史の系譜を見ても、中国から日本へと一方的に文化が運ばれ、日本が“もらいっぱなし”だったわけではなかったのは明白です。

 

たとえば、現代中国語のなかで使われている用語の7割が明治維新からこのかた、日本で創作され中国語に取り込まれたものだと言われることがあります。文化の輸出は双方向であり、日本と中国はお互い影響しあってきた関係というわけです。かりに俳句や短歌が漢詩より劣っているという人がいたとしたら、それはナンセンスです。空手が柔道より強いというのに似た発想だという誹りを免れられないのではないでしょうか。

 

 

ところで、新型コロナウイルス(COVID-19)による感染症の蔓延を受けて、好ましざるとも武漢は世界的に見ても誰もが知る存在となりました。ただ、どれだけの日本人がこの街の文化や歴史、地勢といったバックグランドについて知識を備えているかというと、少々微妙ではないでしょうか。

 

映画『レッドクリフ』は日本でも注目を浴びた作品ですが、赤壁武漢の南西に位置していることを知る人はどれだけいるでしょうか。あるいは、武漢の名前を聞いて、中学時代に習った李白漢詩を思い出した人はどれだけいるのでしょうか。日本で暮らしている日本人にとって武漢は決して身近な存在ではなく、これまで日本国内ではほとんど関心が向けられることがなかったと言っても過言ではありません。

 

 

そこで、せっかくの機会ですので中学生時代のおさらいを兼ねて、かの李白の作品を一首鑑賞してみたいと思います。武漢のシンボルである「黄鶴楼」を詠んだ七言絶句です。実際のところ「来てみてがっかり黄鶴楼」とばかり、観光地としては辛い評価がつけられがちな黄鶴楼ですが、「黄鶴楼送孟浩然之広陵」は初等教育における必修作品ですので日本人にとっても要チェックです。

 

日本語読みの漢字の発音と日本語文法に沿って漢詩を鑑賞する文化は日本オリジナルといってよいでしょう。(中国の人から見たら奇妙この上ないものでしょうけれど、)返り点記号を使って書き下し文にすることで、漢詩を自国の文化に吸収しようとした古人の努力はとてもユニークな試みだったように思えてきます。

 

 

「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」

    黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の 広陵(こうりょう)に之く(ゆく)を送る

 

ピンイン

 gu4 ren2 xi1 ci2 huang2 he4 lou2

 yan1 hua1 san1 yue4 xia4 yang2 zhou1

  gu1 fan1 yuan3 ying3 bi4 kong1 jin4

  wei2 jian4 chang2 jiang1 tian1 ji4 liu2

 

【書き下し文】

 故人(こじん)西のかた、黄鶴楼(こうかくろう)を辞(じ)し

 煙花(えんか)三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に下(くだ)る

 孤帆(こはん)の遠影(えんえい)、碧空(へきくう)に尽(つ)き

 惟だ(ただ)見る長江(ちょうこう)の天際(てんさい)に流るる(ながるる)を

 

 

引き続きおさらいです。1句目と偶数句(2句、4句)の終わりの文字には押韻というルールが存在しました。中国語の発音であれば「lou」「zhou」「liu」という具合に「u」が、日本語の発音であれば「ろう」「しゅう」「りゅう」というように「う」が押韻とされています。

 

では、これらの文字は広東語でどう読むかといえば、楼[lau]、州[jau]、流[lau]。普通話の発音よりも韻が踏まれているのが明らかではないでしょうか。「古代中国語に最も近い発音を備えているのは北京方言を土台とする普通話ではなく広東語」――という仮説がなんだか現実味を帯びてきそうです。

 

もちろん、中国のネットで一時期話題になった「唐王朝時代の中国人は広東語を話していた!?」「広東語は1票差で標準語を決める投票に落選した!?」といった議論は都市伝説の域を超えたものではありません。源義経がチンギスハンになったとか、「明智光秀=天海」といった説と大差ないのではないでしょうか。

 

 

それでもなお、この都市伝説に興味を引かれてやまないのは、東京の人が話す言葉が純粋に標準語だと必ずしも断定できないからです。日本に「国語」が誕生したのは明治20年代だと言われています。それ以前は、京都の言葉をベースに標準語をつくろうという声も根強かったというのですから、日本の標準語というのも薄っぺらい歴史しか有していないことがわかります。自分たちがスタンダードだと信じている言葉の“呪縛”から解き放たれ、文化の源流を見つめていく作業が必要なのかも知れません。(文・耕雲)